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アスリートからの伝言

中国で最も心に残る出会いはルーカスヘッドコーチだという。「一言でいうと、熱くて、温かい人です。例えば試合直前に、『このロッカールームを出るときには、みんなで同じ武器を持って、口にナイフをくわえて戦いに行くつもりで臨まなければいけない。ひとりとして違う武器であったら勝てない』とチームワークの大切さを熱く説いてくれたり、バスケのことに限らず心に残る言葉がたくさんあって、そのたびにメモを取っていました。私がよくツイッターで書いている「バモス!」という言葉も、レッツゴーとか頑張ろうという意味でルーカスがいつも使う一語なんですよ(笑)」

もうひとり、刺激を受けたチームメイトにアメリカ出身のマヤ・ムーア選手がいる。「マヤはゲームに向かうための準備が凄いんです。食事やコンディションのコントロールはもちろん、毎回変わるルーカスコーチのゲームプランの確認を怠らない。だからこそどんな試合でも素晴らしいパフォーマンスが発揮できる、やっぱり日々の積み重ねが一番大切なんだということを改めて感じさせてくれた尊敬すべき選手ですね」

当初、日本代表である大神選手にとって常にライバルである中国行きは、楽しもうというより隙を見せないようにしなければという気持ちの方が大きかったという。「もしかしたら中国の人が初めて見るかもしれない日本人選手として、応援したいと思ってもらえるような言動をいつも心がけていました」4ヶ月の間、チームメイトや地元ファンに温かく迎えられ、中国に対する印象もガラリと変わった。

「中国人って情に厚くて、めちゃくちゃ温かいんですよ。日本人に比べて人と人との距離が近いというか、家族のような親近感というか。チームメイトの歓迎ぶりも嬉しかったですし、お客さんからはいつの間にか私の名前の二文字をとって「大雄(ターシェン)」という愛称で呼んでもらっていました。これドラえもんの「のび太」の中国名なんですよ(笑)。実際に見て感じた中国は出発前のイメージとはまったく違っていましたね、やっぱり中国に行ってよかったなと思います」

どこでやるかより、何をやるか

大神選手にとって最初の海外進出は2008年から4年に渡るアメリカのプロリーグWNBAでの挑戦だった。08年にはフェニックス・マーキュリーでロースター入りを果たしている。アメリカはバスケット人生の原点ともいえる場所。バスケットの指導者である父の留学先だったロサンゼルスで小学校2年生の1年間を過ごし、そこで観たNBA選手たちの華麗なプレイに魅了されたのがバスケットに目覚めるきっかけだった。「最初は、試合に行くとポップコーンとアイスクリームが食べられるとかそういう感じだったのですが、凄いプレイを目の当たりにするうちに、だんだんとあんなダンクシュートができたらいいなと思うようになりました」

それから瞬く間にバスケットに夢中になり、毎日眠る寸前までボールを手にする日々を送った。「うちは父親がバスケの指導者であるということで、何かあると体育館に連れて行ってくれてシューティングさせてくれたり、大学の試合を見に連れて行ってくれたり、環境的にはとても恵まれていたと思うのですが、その分なんだか甘えてしまう気がしてすごく嫌だったんです。それで自分で名古屋の高校への進学を決めました。私は自分で決めたら誰がなんと言おうと貫き通す性格なので、あのとき私の意志を尊重してくれた両親に感謝をしています。」

そもそも世界を目指そうと思ったきっかけは、高校時代の恩師の言葉だった。「あのときの先生の言葉はずっと心に残っています。当時、日本一とか全国制覇という目標で頭がいっぱいの私たちに向かって、先生は『世界に通用する選手をこの3年間で育てる』とさらっとおっしゃったんですよ。そうか、先生が見ている先は日本じゃなくて世界なのかと衝撃を受けました」

2008年からの3年間、夢だったアメリカでのチャレンジは、メンバーに入りたいという目標をがむしゃらに追いかける日々だった。「挑戦を応援してくれたJXに恩返しする意味でも、絶対にメンバーに入らなきゃという一心でした」と当時を振り返る。アメリカでの毎日は想像以上にハードで、「目の前でメンバーがどんどん落とされていくんですよ。練習前のテーピングをしているときでも、練習が終わったばかりでも容赦なくカットされていきます。トレーニングキャンプは言い方変えればサバイバルキャンプでした」

そんな過酷な毎日にメンタルも鍛えられていく。「アメリカの選手って、どんな状況もポジティブに受け止めるんです。ある選手が突然NYにトレードされたとき、みんな彼女によかったねって言うんですよ、それもひとつの評価だからと。同じ境遇にある仲間だからこそ言える言葉なんじゃないかなと思うんですよね。

たとえカットされても落ち込む暇があったら次へ次へと進んでいく、これがアメリカで学んだことのひとつなのですが、実際に私がカットされたときはやっぱりショックでした」そんな時、自分を奮起させるためにしていたのが、何のためにここに来たのか?と自問自答を繰り返し、原点に戻ることだった。「毎日それを繰り返していました。そして今やれることをとにかくやる。ゲームに出られなくてもトレーニングコーチとスキルコーチと練習をして、これが自分のためになるんだと信じて、必死でもがいていましたね」

アメリカでの日々は孤独だったという。そんな時心を癒してくれたのが後輩が送ってくれたルーキーズというドラマと大好きな音楽や本だった。「スケルト・エイト・バンビーノの希望という曲の歌詞に何度も励まされていました。何かのきっかけが欲しいときは高橋歩さんの「人生の地図」という本も大好きでよく読んでいましたね。私、バスケットコートを離れたら、物静かですから(笑)」そう言って豪快に笑う。その笑顔にはストイックに自分の夢と向き合い、喜びも苦しみも乗り越えてきた強さが秘められている。

先駆者として、日本の後輩たちに海外進出を勧める気持ちはそれほど強くない。「どこでやるかより、何をやるかが大事なので、強制はしたくないですが、モチベーションが上がるきっかけになるならいいと思います。私の場合はやりたいことが海外での挑戦だったというだけで、やりたいことがはっきりしていれば、場所は問題じゃありませんから」